DV被害相談を無断公開した幡野氏への糸井氏の擁護コメントが酷すぎると話題に

DV被害者からの人生相談に対する幡野氏の公開内容。
大袈裟もウソも信用を失うから結果として損するよ|幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。|幡野広志|cakes(ケイクス)
相談内容を嘘だと断言するだけならまだしも、内容を相談者に無断で公開し、身バレなども全く考えていなかったという。多少、相談で尾ひれがつくことがあるのはあっても、被害者に追い打ちをかけるような行為が平気でできるのは理解に苦しむのだが、それを見た糸井氏の発言がさらに酷いという事で話題になっている。


DVの相談を嘘だと断言する糸井さんが話題になっていますが、それではここで9月8日の糸井氏のエッセーを見てみましょう

・ハイジャック(航空機乗っ取り)事件について、どういう番組でだったか、鶴田浩二という俳優さんが、「あの犯人というのも、他人を信じてるんだ」という言い方をしていたことが記憶に残っている。
乗っ取り犯が、まったくなにも信じていなかったら、そもそもハイジャックは成立しないというのだ。それは、たとえば、飛行機を操縦している機長は、最後まで乗員や乗客の安全に配慮するであろうこと。そのことを、犯人は信じているというのだった。犯人自身は「なにをするかわからない人間」としてじぶんたちを表現しているけれど、彼ら自身は他人を信じているというわけだ。どういう文脈で言ったのかは憶えてないけれど、ぼくの知っていた「信じる」ということばに、また新たな意味が加わったような気がしたので、このことはずっと憶えている。信用を得るであるとか、信用を失うということが、どれほど重大なことなのか、よく語られる。しかし、特別な悪いこともせずに、平凡に暮らしていたら、「信用がまったくない」ということはなかなか経験しないと思う。コンビニだって、商品を手に持っている人は、これからレジに行って代金を払うと信じられている。どれだけ怪しげに見える姿でいたとしても、最低でもそのくらいの信じられ方はしている。
いま、ぼくらが暮らしているこの社会で、「信じられてない」と痛感することがあるとしたら、どういうときなのだろうと、考えてみる。電車のなかで痴漢の疑いをかけられた場合というのは、ひとつの例なのかもしれない。
そんなことをしたかしないかは、じぶんが知っている。してなければ、ただ「してない」で済むはずなのである。しかし、いかに事実「してない」としても、じぶんひとりでそれを言っていれば済む、わけではない。
相手や周囲や取り調べの人が「信じてない」場合に、「してない」をどうやって証明すればいいのだろう?「信じる信じられる」ということの重さは無限大だ
。そしてまた、外国の社会では、ぜんぜんちがってくるよね。

痴漢冤罪で信じてもらえないのは、糸井氏にとって冤罪被害者として明日は我が身。

DVで訴えても、信じてもらえないのは、糸井氏にとって、DV加害者として明日は我が身。

そこに、ダブルスタンダードが生まれた理由があるのかもしれない
非常に醜いものを見た気分になった。(((・ω・)))

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1件の返信

  1. Gar より:

    さあ皆さんも明日の我が身を考えて
    加害者の人権に配慮したり死刑廃止を叫んだりしましょう!

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